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嫌われる勇気まとめ アドラー心理学9選【要約・感想・書評】

嫌われる勇気まとめ アドラー心理学9選【要約・感想・書評】

こんな疑問や課題に答えます。

岸見一郎氏(哲学者)が書いた「嫌われる勇気」の内容や評価、感想とは?

アドラー心理学とは、どのような思想なんだろう?

とも

この本は2013年12月に出版されたのですが、発行部数は168万部(2018年1月のデータ)、ビジネス書として2014年~2017年の間、4年連続年間ベストセラートップ3位にランクインしている大人気な本です。さらに2017年1月にはドラマ化もしてます。

著者の岸見一郎氏は、京都大学大学院で西洋哲学を学び、大学院卒業の2年後1989年からアドラー心理学と出会い、かれこれもう30年弱もアドラー心理学を研究しています。なぜ哲学を専攻したのかというと「幸福」について興味があったそうです。

そう、アドラー心理学は、「どうすれば人は幸せに生きることができるか?」という哲学的な問いに対して、シンプルかつ具体的に提示してくれている学問なのです。ということで、そんなアドラーの思想を得られた箇所と学びを紹介したいと思います。

アドラー心理学:嫌われる勇気9選

嫌われる勇気の中から幸福の考え方が得られる箇所を9つに厳選して紹介します。

原因論より目的論

あなたは『怒りに駆られて大声を出した』のではない。ひとえに『大声を出すために怒った』のです。言葉で説明する手順を面倒に感じ、無抵抗な相手を、より安直な手段で屈服させようとした。その道具として、怒りの感情を使ったのです。怒りとは出し入れ可能な「道具」です。(中略)

この母親は怒りを抑えきれずに怒鳴っているのではありません。ただ大声で娘を威圧するため、それによって自分の主張を押し通すために、怒りの感情を使っているのです。

心理学界では、三大巨匠と呼ばれる方がいるのですが、アドラーはその1人です。あとの2人は、フロイトとユングになります。ここで面白いのが、フロイトとユングは原因論なのに対して、アドラーは目的論を提唱しているという点です。

上記引用箇所でいうと、怒りに駆られたから怒ったと考えるのが原因論なのに対して、自分の主張を押し通すために怒りの感情を使用したと考えるのが目的論になります。要は、原因と目的のどちらを主体として考えるか?ということです。

原因論と目的論の考え方の違い

  • 原因論:過去志向、受動的、被害者意識、勇気くじき
  • 目的論:未来志向、能動的、当事者意識、勇気づけ

なぜ、アドラーの考え方が人気を博しているのかというと、目的論が「幸せになれる幸福論の考え方」だからです。アドラーの目的論の立場で物事を考えてみれば、幸福に必要な「問題解決」と「目的達成」に思考が向かいますよね。

もちろん、原因論がよくない考え方というわけではありません。原因論は物事を「分析」と「解説」する際に役立つ考え方です。ちなみにアドラーは、原因論のことを自己正当化(都合のいい因果関係)のための「見かけの因果律」と否定しています。

MEMO
因果律とは、一切のものは何らかの原因から生じた結果であり、原因がなくては何ものも生じないという法則。

要は自分を肯定するための理由付け(言い訳)ですね。人間は何か不都合なことが生じると、「それは○○だからだ」と自己正当化してしまう生き物です。ちなみに心理学用語でもちゃんとその言葉はあって、「認知的不協和の解消」と呼びます。

仕事の対人関係

人は、対人関係のなかで『わたしは正しいのだ』と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。(中略)距離と深さという観点から考えると、仕事の対人関係はもっともハードルが低いと言えます。仕事の対人関係は、成果というわかりやすい共通の目標があるので、少しくらい気が合わなくても協力できるし、協力せざるえないところがあります。そして、仕事の一点によって結ばれている関係である限り、就業時間が終わったりすれば、他人の関係に戻れます。(中略)

『あの上司がいるから、仕事ができない』と考える。これは完全な原因論です。それではなく『仕事をしたくないから、嫌な上司を作り出す。』と考える。あるいは『できない自分を認めたくないから、嫌な上司を作り出す。』こちらは目的論的な発想になります。理不尽なる感情は、上司自身が始末するべき課題であり、すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。

個人的に仕事の対人関係について目から鱗でした。仕事の対人関係は成果という共通の目標があるから「もっともハードルが低い」という考え方に、読んだ当初は「そうかな?」と疑問を感じました。

おかしな上司は、気にせずスルーして黙々と仕事に集中すればいいのでしょうが、やはり理不尽な目に遭うとどうしてもモヤモヤしてしまいます。そんな被害者意識を抱えてしまっている人に対して、著書は下記のように述べています。

仕事を一生懸命やっていれば、そんな暇はありませんよ。対人関係の揉め事に注意を奪われる余裕なんてないはず。モヤモヤや被害者意識というのは、別のことが起こっている証拠です。もしかしたら、自分の仕事に胸を張れない事情があるのかもしれない。あるいは、積極的に仕事に取り組めない口実にして、言い訳をしているのかもしれない。私はモヤモヤしているから、被害者だから、仕事に集中できない、と

“Yes, but……”ですね。カウンセリングの現場ではよくある発言です。“話はわかるんだけど、でも……”という。気をつけなければいけないのは、“でも”と言った時点で自分の中ではやらない方に動いてしまっているということ。あとはやらない言い訳を無数に並べるだけです。やっていないことはやらないとわからない。やったらできるかもしれない。まず1週間やってみてというと、意外とできるものですよ

もちろん、難しいことを言っている自覚はあります。しかし、目の前の現実を変えられるのは理想だけなんです。現実を追認してしまったら何も変わらない。だから私はカウンセリングで“大変ですね”とは言いません。認められてしまうと、人は課題に向き合おうとしなくなってしまうから。私の仕事は、課題に向き合う勇気を出す助けになる“勇気づけ”です。だからこそ、あの本のタイトルは『嫌われる勇気』なんですよ
出典:「仕事の邪魔をしてくる人」との上手な接し方は? 「嫌われる勇気」著者・岸見一郎さんからの助言

こう言われてしまうと、ぐうの音も出ませんね。自己正当化の罠(理由付け)に陥っていました。よく堀江貴文氏が自分の考え方と同じだと嫌われる勇気を絶賛していたのですが、確かにホリエモンもよくメルマガで「スルーしよう」と断言してます。

そして、アルファブロガーの藤沢数希氏も、「実害がなければそんなの無視して、自分がやるべき仕事に集中しましょう」と面倒くさい相手はスルーして、仕事の成果にフォーカスするように読者に主張しています。

そう、アドラー心理学は、成功者の考え方とかなり共通しています。自分がコントロールできない部分は適当にやり過ごして、自分がコントロールできる部分で努力するということです。変えられる自分にフォーカスするわけですね。

ちなみに堀江貴文氏と村上春樹氏が嫌なことへの対処法が一緒なのですが、これはアドラー心理学の考え方をしていたからなんですね。成功者はやっぱり同じ考え方の人が多いですね。詳しくは下記の記事をご一読ください。

参考

嫌なことへの対処法が一緒:村上春樹と堀江貴文ともろぐ

課題の分離

あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと。あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。(中略)他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです。(中略)

「課題の分離」ができておらず、承認欲求にとらわれている人もまた、きわめて自己中心的なのです。承認欲求の内実を考えてください。他者はどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているのか?つまり、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか?こうした承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていません。(中略)あなたは他者によく思われたいからこそ、他者の視線を気にしている。それは他者への関心ではなく、自己への執着に他なりません。(中略)

対人関係のなかで不愉快な思いにさらされることは、多々あるでしょう。しかし、このとき間違っていけないのは、いずれの場合も攻撃してくる『その人』に問題があるだけであって、決して『みんな』が悪いわけではない、という事実です。神経症的なライフスタイルを持った人は、なにかと『みんな』『いつも』『すべて』といった言葉を使います。『みんな自分を嫌っている』とか『いつも自分だけが損をする』とか『すべて間違っている』というように。

もし、あなたがこれら一般化の言葉を口癖としているようなら、注意が必要です。アドラー心理学では、こうした生き方を『人生の調和』を欠いた生き方、と考えます。物事の一部分だけを見て、全体を判断する生き方です。どうでもいいはずのごく一部にだけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている。それは人生の調和を欠いた誤ったライフスタイルなのです。

これはアドラー心理学の中でも衝撃的かつ最も重要な考え方の1つ「課題の分離」です。人はそれぞれ課題を抱えており、他者の課題に介入することで、全ての対人関係のトラブルが起こるとアドラー先生は仰るのです。

そして、この課題の分離ができておらず、他者の課題に介入することを「自己中心的」だと批判しています。例えば、他者が怒ることは怒っている人の課題なので、必要以上に干渉したり悪く言うことは自己中心的な発想だというのです!

求めてもいないアドバイスを他人からとやかく言われてしまうと(しかもそのアドバイスが的外れ指摘の場合特に)「余計なお世話」と不快な気持ちになります。しかし、怒りをぶつけてくる人に対して介入することもまた自己中心的というから驚きです。

自由とは、他者から嫌われることである

われわれは、対人関係から開放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。しかし、宇宙にただひとりで生きることなど、絶対にできない。ここまで考えれば、「自由とはなにか?」の結論は見えたも同然でしょう。すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と、あなたは誰かに嫌われているということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きているということのしるしなのです。

全ての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きわまりない生き方であり、同時に不可能なことです。自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは、他者からから嫌われることなのです。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。(中略)

嫌われたくないけど、嫌われてもかまわない?そうですね。「嫌われたくない」と願うのはわたしの課題かもしれませんが、「わたしのことを嫌うかどうか」は他者の課題です。わたしはよく思わない人がいたとしても、そこに介入することはできません。「馬を水辺に連れて行く」ところまでの努力はしても、そこで水を呑むか呑まないかは、その人の課題なのです。

この一節「自由とは、他者から嫌われることである」が本書の真髄でしょうか。つまり、自由になりたければ他者から嫌われることを、承認されないかもしれないというリスクを取らなければいけないということなのです。

そもそも「自分のことを嫌うかどうか?」ということは、他者の課題なので仕方のないことだと、アドラー先生はいいます。確かに自分を押し殺して偽りの自分を演じたとしても、嫌われる人には嫌われます。だったら正直に生きた方がいいですよね。

これは芸能人の嫌いな人ランキングを読み解いてもよく理解できます。とうのも、嫌いな人ランキングにランクインしている人は、好感度が高いランキングでもランクインしている人気のある芸人さんやアーティストの方だったりするのです。

MEMO
近代哲学の巨人カントは、他者から嫌われたくないと思う欲望のことを「傾向性(本能的な欲望、衝動的な欲望)」と呼びました。

共同体感覚

他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。共同体感覚とは、幸福なる対人関係のあり方を考える、もっとも重要な指標なのです。英語でsocial interest。「社会への関心」です。この社会の最小単位は「わたしとあなた」です。そこを起点に「自己への執着(自己中心的)」を、「他者への関心」に切り替えていくのです(中略)

『この人はわたしになにを与えてくれるか?』ではなく、『わたしはこの人になにを与えられるか?』をかんがえなければならない。それが共同体へのコミットです。なにかを与えてこそ、自らの居場所を得ることができると?ええ、所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものなのです。(中略)

覚えておいてほしい行動原則があります。われわれが対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。学校なら学校という共同体のコモンセンス(共同感覚)で物事を判断せず、より大きな共同体のコモンセンスに従うのです。仮にあなたの学校で、教師が絶対的な権力者として振舞っていたとしましょう。しかしそんな権力や権威は、学校という小さな共同体だけで通用するコモンセンスであって、それ以上のものではありません。

「人間社会」という共同体で考えるなら、あなたも教師も対等の「人間」です。理不尽な要求を突きつけられたなら、正面から異を唱えてかまわないのです。もしあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係など最初から結ぶ必要などない。こちらから捨ててしまってかまわない。関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。(中略)

人は『わたしは共同体にとって有益なのだ』と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。共同体、つまり他者に働きかけ、『わたしは誰かの役に立っている』と思えること。他者から『よい』と評価されるのではなく、自らの主観によって『わたしは他者に貢献できている』と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができるのです。(中略)わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。

また難しい概念が出てきました。「共同体感覚」です。幸せになれる対人関係の在り方として最も重要な指標だとアドラー先生は仰っしゃります。共同体は英語でいうとコミュニティです。恋人、家庭、学校、職場、地域、国家などの集まりのことです。

そしてこの共同体への所属感を得るためには、与えてくれる受動的立場ではなく、与える能動的立場でなければ獲得できないと断言します。そうすることで、そのコミュニティに所属している感覚を満たすことができるというわけです。

ここで大切な学びが、この共同体の中でトラブルに見舞われた場合、「より大きな共同体の声を聴け」です。常識(コモンセンス)というのは、概ねその共同体の中での常識であって、広い世界を見渡してみれば非常識だったりしますよね。

また、人間社会という大きな括りで共同体を考えれば、人間という「同じ立場」です。だから理不尽な要求を突きつけられた場合は、自分の意見を主張することは決して構わないというのです。むしろ、自分の人生を生きるために必要だといいます。

縦の関係を否定

アドラー心理学ではあらゆる『縦の関係』を否定し、すべての対人関係を『横の関係』とすることを提唱しています。劣等感とは縦の関係の中から生じてくる意識です。あらゆる人に対して同じではないけれど対等という横の関係を築くことができれば、劣等コンプレックスが生まれる余地はなくなります。

横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます。人が課題を前に踏みとどまっているのは、その人に能力がないからではない。能力の有無ではなく、純粋に「課題に立ち向かう”勇気”がくじかれていること」が問題なのだ、と考えるのがアドラー心理学です。人は、褒められることによって『自分には能力がない』という信念を形成していくからです。ほめることとは「能力のある人が、能力のない人に下す評価」なのですから。一番大事なことは他者を評価しないということです。評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。(中略)

あなたが誰か一人でも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気付かないうちに、あらゆる対人関係を「縦」でとらえているのです。もしも誰か一人でも横の関係を築くことができたなら、ほんとうの意味で対等な関係を築くことができたなら、それはライフスタイルの大転換です。そこを突破口にして、あらゆる対人関係が「横」になっていくでしょう。(中略)

年長者を敬うことは大切でしょう。会社組織であれば、職責の違いは当然あります。誰とでも友達付き合いをしなさい、親友のように振る舞いなさい、といっているのではありません。そうではなく、「意識の上で対等」であること、そして主張すべきことは堂々と主張することが大切なのです。場の空気を読んで縦の関係に従属することは、自身の責任を回避しようとする、無責任な行為です。上司の指示に従った結果、その仕事が失敗に終わったとしましょう。これは誰の責任でしょうか?あなたには断る余地もあるのだし、もっといい方法を提案する余地もあったはずです。あなたはただ、そこにまつわる対人関係の軋轢を避けるために、そして責任を回避するために『断る余地がない』と思っているのですし、縦の関係に従属しているのです。

また面白い考え方が出てきました。アドラー先生は、上下関係を否定しています。劣等感とは縦の関係から生じる意識であり、あらゆる人に対して横の関係を築くことができれば、劣等コンプレックスは生まれないと断言しています。

また興味深いのが、人は褒められることによって「自分には能力がない」という信念を形成するので、褒めることを否定していいます。褒めるとは「能力のある人が、能力のない人に下す評価」で、他者を評価しないというのが1番大切だというのです。

個人的に学びが大きかったのは、「意識の上で対等」「場の空気を読んで縦の関係に従属することは、自身の責任を回避しようとする、無責任な行為」という箇所です。僕は会社員時代、上司の言うことを文句一つ言わずに仕事していました。

それが正しいと思っていたからです。だから、上司から評価されないと不快になりましたし、逆に評価されると嬉しい気持ちになりました。しかし、全く幸せではなかったんですよね。なので、これを読んで「そうだったのか!」と衝撃を受けました。

当時は全然わかりませんでしたが、今思えば縦の関係に従属することで、対人関係の軋轢を避けて嫌われないように他人の人生を生きていたからだったんですね。ピクサーも縦の関係を否定しており、縦の関係に従属しないことは重要だと痛感しました。

参考

ピクサーから学ぶ!タテ社会の人間関係や上下関係が思考停止を生む理由ともろぐ

自己受容

共同体感覚を持てるようになること。そこで必要になるのが、「自己受容」と「他者信頼」、そして「他者貢献」の3つになります。ことさらポジティブになって自分を肯定する必要はありません。自己肯定ではなく、自己受容です。60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけで、本当の自分は100点なんだ」と言い聞かせるのが自己肯定です。それに対し、60点の自分をそのまま60点として受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えるのが自己受容になります。課題の分離もそうですが、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。自己受容とはそういうことです。

これも目から鱗かつ重要なアドラーの考え方「自己肯定ではなく自己受容」です。「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めて、変えられないことに関しては「自分を受け入れた上で問題解決を考える」というのが健全な精神ですよね。

他者信頼

信頼の対義語は懐疑です。仮にあなたが、対人関係の基礎に「懐疑」を置いていたとしましょう。他者を疑い、友人を疑い、家族や恋人までも疑いながら生きている、と。いったいそこからどんな関係が生まれるでしょうか?あなたが疑いの目を向けているは、相手も瞬時に察します。「この人はわたしのことを信頼していない」と、直感的に理解します。そこからなにかしらの前向きな関係が築けると思いますか?われわれの無条件の信頼を置くからこそ、深い関係が築けるのです。

アドラー心理学は、道徳的価値観に基いて「他者を無条件に信頼しなさい」と説いているわけではありません。無条件の信頼とは、対人関係をよくするため、横の関係を築いていくための「手段」です。もし、あなたがその人との関係をよくしたいと思わないなら、ハサミで断ち切ってしまってもかまわない。断ち切ることは、あなたの課題ですから。信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことができないのです。

「他者信頼」によってもっと深い関係に踏み込む勇気を持ちえてこそ、対人関係の喜びは、人生の喜びも増えていくのです。(中略)他者のことを敵だと思っている人は、自己受容もできていないし、他者信頼も不十分なのです。他者を「敵」だとみなしたままおこなう貢献は、もしかすると偽善につながるのかもしれません。しかし、他者が「仲間」であるのなら、いかなる貢献も偽善にはならないはずです。

他者を信頼しないことには、良好な関係を築けません。私たちは信頼した人に裏切られると憎悪の感情が芽生えます。しかし、それは「課題の分離」ができていないからなんですね。真の意味で信頼するとは、この人なら裏切られてもいいなんですよね。

そして大切なことは、「横の関係を築けないような人との関係は断ち切る」ことですね。人生は有限なので、誰とも友達となり良好な関係を築こうと考えていては、時間がいくらあっても足りません。しっかり自分で取捨選択することが求められます。

他者貢献

貢献感を得るための手段が『他者から承認されること』になってしまうと、結局は他者の望みどおりの人生を歩まざるをえません。承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。われわれは自由を選びながら、なおかつ幸福をめざす存在なのです。

他者貢献も大切です。他者貢献を達成するための手段が「他者から承認を得ること」だと、人の顔色を伺って他人の人生を生きることになってしまい、承認欲求から得られた貢献感なのでよくありません。それは自由がないので幸せになれないわけです。

社会や他者に貢献する際は、承認欲求を得ることを決して手段にはせず、自分の興味関心や好きなことやりたいことを自分の信念に則って突き詰めた結果、社会や他者から承認されたという副産物程度に考える方が健全ですよね。

MEMO
予防医学研究者の石川善樹さんが、脳内が楽しいときに活性化する部分をMRIで測定して「世界でいちばん楽しいのは誰か?」ということを調査した結果、最高値を叩き出したのが「すごく報われない人を助けているときのチベットの禅僧」でした。

アドラーの考え方に則り、幸福について考えてみれば、人や社会を助けて承認された結果、幸福になれたのではなくて、自分の信じている物事に取り組んだ結果として、感謝されるというのが、真の意味での幸せになれる方法ということなのでしょう。

まとめ

アドラーの思想は、「どうすれば人は幸せに生きることができるか?」という哲学的な問いに答えた幸福論の考え方です。したがって、アドラーの考え方を日々の生活のなかで意識して取り入れてみると本当に人生が生きやすいものに変わります。

アドラー先生はこうも仰っています。

もしも人生が線であるのなら、人生設計も可能でしょう。しかし、われわれの人生は点の連続でしかない。計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。

これはApple社の創始者、スティーブ・ジョブズが卒業式でスピーチした内容と同じです。

参考

仕事やめたい!スティーブ・ジョブズならどうする?【名言9選】ともろぐ

つまり、計画的な人生というのは、必要不必要という問題以前に不可能ということです。将来は、未来はどうなるのかは誰にもわかりません。もし正確な未来がわかるなら億万長者です。

人生は点の連続なのだから、過去(原因)の自分に縛られて、それを言い訳(自己正当化)にして、自分の人生を諦めてはいけないということです。なぜなら、私たちの人生は点の連続であって、決して1つの線になっているわけではないのだから・・・

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